●鹿島茂(フランス文学)/「週刊文春」2001・4・14 号
「私の読書日記」のページ「はじめてのヴェトナム、行った、見た、読んだ」より
×月×日
例によってパック・ツアーでヴェトナムのホー・チ・ミン市に旅行。
ヴェトナムは前々から一度足を運んでみたいと思っていた国である。ヴェトナムは十九世紀半ばから一九五〇年第までフランスの植民地だったから、生活の細部
に、宗主国ではとうに消えてしまった商品や文化の「化石」が残っている可能性が強い。この化石を拾ってみたい。
往時、羽田(ヴェトナムへは関西空港からの便)で買った姫野カオルコの最新刊のエッセイ『ブスのくせに!』(新潮文庫 四四〇円+税)を読む。
ここのところ、私の中ではちょっとした姫野カオルコ・ブームが起こっていて、彼女の出している文庫は全部買って読んでいる。こんなことは大槻ケンヂ以来
だ。いや、驚きましたね。これだけ趣味(認識力のこと)がよくて、しかも、その「趣味」による裁断を的確な言葉で表現できる物書きがいたとは。
姫野カオルコは一部の(ただし、かなり限られた)読者から熱烈に支持されていると聞く。日本もまんざら捨てたものではない。
「高齢処女(本誌が名付け親だそうです)」姫野カオルコが、その体験から割り出した真実とは、男も女も、現実と似てはいるが現実とはまるっきり異なる幻想
(ウソ)を糧として生きているということだ。
たとえば、本のタイトルにも現れている「美人⇔ブス」の定義は彼女によればこうなる。
すなわち「職場でミスをしても○○子ちゃんは許される。美人は得よね」とはよく耳にする言葉だが、正確にはこう言い直さなければならない。
「ミスしても○○子ちゃんは許される。〃多くの人が美人だと錯覚する情緒的主観的な要素を内側から出している人は得よね」。
この定義を立証するような形になっているのが次のオードリー・ヘプバーン論である。
「オードリーが映画で演じる役柄はたいてい〃決して美人ではない。色っぽくもない。でもチャーミングである。よって彼女だけがもっている魅力をだれか強い
男に発見されて幸せになる〃である。
しかし、これは嘘なのである。そんなに懇切丁寧に女性を判断して好きになるような男は存在しないのだ。異性に限らない。人は他人を、そんなに懇切丁寧に
は見つめない。それが現実なのだ。
決して美人ではないが、って、これがクセもので、現実には=真実は=ほんとうのことは、救われるのはあくまでもオードリー・ヘプバーン級の外見を所有し
ている女だけなのであって、フツーの外見の人は救われたりしないし、美人でもかわいくなければ救われないし、ましてやフツーの外見のくせにかわいくない者
など救われるどころか積極的に嫌われる。ハリウッドは現実をまやかしにするのがホントうまい。ニクイね、このォ」
日本にも、フランス語的な意味でのモラリスト(人性研究家)がいたのである。
●[掲載]週刊朝日2007年02月16日増大号・[評者]温水ゆかり
姫野式顔ウォッチングの書。12年前の単行本のあと、大幅加筆で文庫になり、それをまた一文字目から書き直しての再文庫化(「ケータイ雑誌theどくしょ」で配信)。これにて”改稿打ち止め”というだけあって、読み応え十分の強力作になっている。
さて、美人とはなんぞや。世評に高い美人を”ワタシはそう思わない”という経験はよくある。それだけ美の感得は、個の情緒に左右される。本書の題名はそれをネガに反転させた謂いであり、「ブスのくせに」の”くせに”がその情緒部分である。
著者はこの情緒を「溜まり」と称し、そこに渦巻く勘違い、嫉妬など数々のメカニズムを明らかにしていくのだが、これがめっぽう面白い。頷く、膝を打つ、黒く笑う。芸能界の整形美男美女地図(一部伏せ字の人名当てクイズでも)、「美人じゃないけどかわいい」女の系譜、関西と関東では、三大いい男成分=「やさしい」「男っぽい」「おもしろい」の配合が変わる戯文にも爆笑する。いやはや、やっぱり実名入りエッセイは猫のミルクだ。
両性具有の眼で”女という群れの中の女の立ち位置”を描き続けている姫野文学の、ラッキョの芯のような副読本としてもお薦め。
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