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メディアに掲載された姫野カオルコ作品の書評を紹介(純喫茶/PHP文芸文庫)

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2004年発売の『ちがうもん』(文春文庫)が『純喫茶』に改題され、PHP文芸文庫に替わって2014年3月に発売。以下は『ちがうもん』(文春文庫)時のものです。
『ちがうもん』(文春文庫・姫野カオルコ著)解説抄

                      
辰濃和男

【辰濃和男】(たつの・かずお) 一九三〇年東京生れ。東京商科大学(現・一ツ橋大学)卒。朝日新聞社入社。ニューヨーク特派員、社会部次長、編集委員、論説委員、編集局顧問を歴任し、「天声人語」を担当。九三年退社。現在はフリージャーナリスト。
《「記憶」という名の鉱脈》

ハードカバー刊行のさい、深夜、残り少ないページを惜しみながら読み続けた記憶がある。姫野カオルコは、自分のこころにうねうねと横たわっている「鉱 脈」を探しあてた、という思いもあった。それは「記憶」という名の鉱脈だ。

四、五歳のころの記憶が皆無にひとしい私からみれば、「二、三歳のときに住んでいた家の便所の戸のペンキの色や塗り方のムラや把手のかたちをはっきりおぼえています」という姫野の記憶力は、とても人間業とは思えない。「記憶というのはやっかいなもので、たとえたのしい記憶であっても、あまりに明瞭だと、現在の自分の足元をすくわれます」ということばはだから、私にはよくわからない。そんなものかなと想像し、想像しながらやはり感嘆する。

ただ「鉱脈」を探しあてただけでは作品は生れない。内部のたくさんの格闘があって、鉱石は磨かれていったのだろう。どこまでが実際の記憶で、どこからが創作であるのか、そんなことを問うのがヤボなくらい、虚実は渾然一体となっている。

眠る前のひととき、この本のお世話になる日々がかなり長く続いた。何回も繰り返して読みながら、天賦の才を実感した。

今夜は「米屋の赤川さん」が太い指でオモチャの特急こだまを動かす情景に出会いたいとか、今夜は福井の海辺の宿の少年に会いたいとか、今夜はじみさんの経営するレストランの「ありそうでいてなかなかめぐりあわない、どこかやぼったさのある家庭的な味のハンバーグ」にありつこうとか、そんなことを勝手に思って読み、読んでいるうちにやすらかな気持ちになって眠りについた。

姫野の記憶がそのままこちらの体験になってゆく錯覚を味わい、さらには、自分のなかの記憶の埋火(うずみび)が突然、赤々とした炭火になる感覚を味わうこともあった。

米屋の赤川さんも、海辺の少年も、じみさんの店も、たまらなくこころに響く。なつかしい。それは、六〇年代(昭和四十年代)がにおってくる細密描写のおかげである。細密描写を成り立たせるふしぎな記憶の断片、それをつなぎあわせる丹念な構築力のおかげである。

本書には五つの作品が収められている。
・哲子(哲っちゃん)
・佐紀(サーちゃん)
・高橋(タカちゃん)
・正親(おおぎ)
・まり子(まり子ちゃん)

の五人がそれぞれの作品の主人公だ。みな関西の地に故郷をもつ女性で、一九五八年(昭和三三年)ごろに生れている。いまは東京に独り暮し、働いている。

主人公たちはみな、六〇年代(昭和四十年代)に幼少期を過ごし、東京五輪、新幹線誕生以降の日本が繁栄への飛翔をはじめた時代の経験を共有している。本書は「あのころ」へさかのぼってゆく旅である。ここには、あのころを生き抜いた市井の人たちへの惜別の辞がある。少女の野性が鋭く感じとった世界がある。人の温暖さ(ぬくとさ)や清らかさへの共感があり、人を傷つけるものへの強い怒りがある。

真夏の海辺で哲子は烏賊漁の船に乗せてもらい烏賊の墨を浴びる。夜明けの浜では宿のお兄ちゃん(少年)が叫んでいる。
「いやあっ、みあああっ」

烏賊、見たあ、と叫んでいるのだ。

なんでもない光景だが、ここの描写は心に残る。海の宿の「温暖とさ」を吸い取ろうとして、幼い哲子の記憶の海綿体は異常な吸引力を発揮している。

高柳さんのおじさん、おばさんもいい。佐紀は、事情があって預けられた高柳さんの家の「がさがさ」した感じが好きだった。「おばさんもおじさんが好きだったのだろう。彼らは動けば汗の出る男と女で、彼らの家には私の家にはない、だらしない温暖とさがあった」

日本は、「だらしなさ」を次々にふるいおとし、そのために人びとを息苦しくさせてしまう歴史をたどってきた。

そして「特急こだま東海道線を走る」にでてくる赤川さんの存在感。まっとうに仕事をしているおっさんを寸描するとき、姫野の筆は躍る。ほとばしる、という感じになる。幼いまり子はいつも赤川さんが来るのをこころ待ちにしていた。一家が広い家に引っ越したあと、赤川さんはお祝いの米袋をもってきて玄関の前に立つ。
「自分の身長の半分以上もある大きな重たそうな米袋を、躯(からだ)の正面で抱きかかえ、丸い赤い顔をして、えへ、と笑っていた。クリームパンのような手が米袋をしっかり支えていた。チャイムも鳴らさず、そうして立っていたのだ」

ただ立っているだけの玄関口の赤川さんを見て、まり子は泣く。四歳十カ月の幼女はそのときなぜ泣いたのか。

高度成長という化け物が「温暖とさ」を奪いとり、壊していった時代の流れを作者は見つめる。


本書にはカギになることばがたくさんある。むりに二つにしぼれば一つは「温暖とさ」であり、もうひとつは「清らかさ(純潔)」である。後者の代表例が第三話「みずうみのほとり」だ。二十五歳の女性、まきちゃんはうつし絵のシールが好きでせっせとシールをしている。小学三年生の主人公も、まきちゃんにシールをしてもらう。
「『この人、好き?』
私の腕で、小首をかしげているちょうちん袖の女の子を、まきちゃんが指さして訊いた。私はだまったまま、ただ何度も何度も首を縦にふった。重たそうなレジスター機の、うす茶色の金属に午後の光が撥ね、まきちゃんは笑った」

この本のなかでもっとも透明感のある、美しい情景だ。

シールに夢中のまきちゃんの姿を見て、小学生の主人公が息をつまらせる。なぜか。結末で明かされる。


温暖とさとか、清らかさとか、そういったものを書くのはそう易しいことではない。ともすれば文章が湿っぽくなってしまう。

だが、この本のなかでの赤川さんにせよ、高柳さん夫妻にせよ、シールのまきちゃんにせよ、そこにいるのは等身大の人間だ。作者の記憶のなかの鉱脈はいまも熱く燃えているのだろうが、文章に刻まれる人間はむしろ、ごくあっさりと、乾いた筆で描かれている。だからこそ、実在感があるのだろう。


深夜、眠りにつく前にこの本をよく手にするのは、六〇年代(昭和四十年代)を生きていた人びとの情けの世界に触れたいという願望が私にあるからだろう。作者の記憶の鉱脈を触媒にして、自分もまた六〇年代、いやさらに昔の時代に戻りたい、人と人をつないでいる温暖とさや、よけいなものを持たない人の清らかさに出会いたい、そういう願いがあるからだろう。時代が捨て去りつつあるものにこそ大切にしたい宝物があるのだ、ということを作者はごくひかえめに描いている。


この本の幼い主人公は、ときどき「ちがうもん」と異議申し立てをしている。ちがうもんと思う。が、四歳にもならぬ子は、ことばでは説明できない。「子どもはみな甘いものが好きとは限らない」といいたいところだが、ことばにならない。「派手なシャツを着て、黒ぶちの眼鏡をかけた男」がいればただただ恐ろしい。

長じてからの主人公も、異議のある暮らしのなかにいる。この、異議のある暮らしというのは姫野カオルコという作家のよりどころ、であるのかもしれない。姫野の分身達は、自分自身の好き嫌いに忠実に生きている。いさぎよういといったらいいのか。嫌いなものは嫌いといい、自分を曲げない。だれにも媚びず、自分の力で立っている。そういう自由な生き方をしている。

どのページを切り取っても、そこには姫野の姿があり、姫野の文章がある。

まがいもののはやる世の中では、それは希有のことのように思える。

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